開基はもと三輪宗にはじまり、その道場として大同元年(806年)、平城天皇の勅願所として建てられました。その後、元久元年(1204年)に頓阿という僧によって住持され、禅宗に改められました。この頃、地頭村田刑部少輔の妻が十九才で他界し、迷った魂が冥土に行けず毎夜あらわれるため、地頭はもちろん土地の人たちも途方にくれ、寺僧も寺も廃業同様の有様になってしまいました。困りきった村人たちは、親鸞聖人が笠間の稲田草庵(西念寺)より鹿島神宮へ参詣するため近辺を通ることを知り、毎夜あらわれる幽霊をとりしずめてもらうようお願いしました。このことを契機として暫住すること三年、寺の名前を無量壽寺と改め、あとを弟子の順信房に譲り、阿弥陀仏信心の布教に専念しました。順信房は、京都より鹿島に来て片岡に住んだ大中臣宮司家系の鹿島神宮神官出身の僧侶で、浄土真宗教団、鹿島門徒の指導者となりました。無量寿寺は、親鸞聖人門下二十四輩の第三番鹿島順信房信海の遺跡です。
国指定文化財(絵画):紙本著色拾遺古徳伝
本巻は構図も複雑で描写も山水風景人物ともに古色に富んでいる。鎌倉時代末期の重要な絵巻物である。
県指定文化財(書跡):無量壽寺御文章
県指定文化財(天然):菩提樹
県指定文化財(建造物):本堂、鐘楼、山門
その他:「幽霊の絵」掛け軸(火災にて消失)